2015年10月30日金曜日

貧困解決に向けて

どうも野良猫です。
日本では秋でしょうか。紅葉も終わり冬に向けていろいろと準備をされている事と思います。
ハノイはまだ夏です。11月に入ると大雨が降り続き、12月に入れば一気に気温が下がりロンドンに比喩される霧雨と10度前後の気温の季節へ突入します。
個人的にはこのハノイの冬が一番嫌いです。


さて、今回はベトナムの話題ではなく、いまNPで話題になっている一人親家庭の支援について書きたいと思います。

私個人について書くとこの分野については素人同然ですが、大学時代にタイの農村地域を支援する学生団体に所属し開発学やNGO論、百マス計算をタイでやる支援に関わっていました。
そんな素人の野良猫が話題のトピックに切り込みたいと思います。
NPにはNGOの方や国際機関に所属されている方、実際の支援の現場にいる方などがいるので専門的な議論は、そのような方々に託したいと思います。
私は誰もいない場所で、誰も叫ばない所でニャーと一声鳴くだけです。
それが世界を変えるきっかけとなると願いながら。

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まず論点整理です。
一人親支援の目的は何でしょうか。
一人親の貧困が問題だ、母子家庭の存在が問題だ、いろいろあると思います。
ただ突き詰めると一つの事が問題です。
「日本の貧困解決」がこの議論のあるべき問題意識です。

漠然としていて分からないでしょうか?
いいえ。私たちの生きるこの世界にはこの分野のノウハウが数十年に渡って存在しています。
それはNGOや国連、国際機関などがずーっとやってきた途上国支援の中で生み出されてきました。
障害を持つ人への支援。
いわゆるクズ親の支援。
DV家庭への支援。
孤児への支援。
学習支援。。。

既に多くの人が実地で研究し実績が存在します。
これらの経験は一国で行われた事ではなく、サブサハラ(サハラ砂漠以南の地域)や近場だと北部タイ・東北部タイでの支援など東南アジアの他国でも多く存在します。
日本の支援者はこういう研究を学び、日本人の支援へ活かして欲しいと思います。

素晴らしい方々の残されたモノの中で私は、支援のあり方について指摘をしたいと思います。
既にコメントで書いていますが、制限があったので、ここでまとめたいと思います。

ところで、最近は川端さんのタイカントリレポートが熱いですね。
是非読んで欲しいです。


連載の中でもコメントさせてもらいましたが、タイ文学の「インモラル・アンリアル」には売春宿での話を仏教的な価値観で表現しているモノもあり大変興味深いです。
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さて、本題に入っていきます。

貧困問題を考える上で重要なのが貧困の鎖と言われる悪循環です。
下記に記載します。

①親の貧困▶︎②子どもの教育への無理解▶︎③児童労働▶︎④子どもの教育機会の減少▶︎⑤子どもの低収入化▶︎⑥出産、①へ戻る・・・。以下ループ。

この鎖は世界の貧困の全てに共通します。
貧困解決の為には、この鎖の中の矢印を断ち切らなければなりません。

今回の一人親家庭への支援については①への支援と言えます。
一人親の貧困家庭への金銭支援を増額し、教育費用へ回してもらおうというのです。
これを「慈善型支援」と言います。
貧しい人に限って国が、社会保障として支援を行うのです。
これは決して新しい事ではなく大昔から存在する支援です。
例えば王族が貧しい人へ施しを行ったり、持てるモノが持たざるモノへ富の移転を行う事です。
聖書にもそういう話がありますね。2枚下着を持つ者は持たない者へ1枚あげなさいっていうやつです。

今回の騒動の中心にいる常見さんは、この上から目線に反感を持っているのだと思います。
そして同時にこの支援の形は人々の自尊心を傷付けかねませんし、自尊心の喪失を生み出し支援に依存をさせる可能性があります。
事実、アフリカでは支援に依存し自主的な活動ができなくなり、問題が悪化した事例が存在します。

貧困解決を目的にした支援としては悪手です。

これはあくまでも公的な社会保障として捉えるべきです。
年金や生活保護と同義のものです。


慈善型支援の次に生まれたのが「プロジェクト型支援」というものです。
これはお金だけだとどのように使われるか分からず貧困解決への効果が薄いという反省から生まれたものです。
いわば資本参加だけではなく経営にも参画する投資ファンドのようなものです。
貧困解決に繋がるモノやノウハウを提供しようというものです。

支援者のお金を使い、筆記具を買ったり教科書を用意したり、図書館を作ったり、学校を作ったりプロジェクトをもって支援しようというものです。

この支援への批判には有名なたとえ話があります。
それは「−00000000000000っp:」(猫が踏みました)

ごっほん。

それは「魚を釣る為には釣り竿をあげるのではなく、釣り竿の作り方を教えるべき」
というものです。

釣り竿をあげても壊れてしまったら直せないし、必要な人が増えたら更に釣り竿を買ってこなければならなくなります。
これでは被支援者の自立ができません。
これもダメでした。


プロジェクト支援の次が「参加型開発」です。

参加型開発の最も有名な事例がグラミン銀行です。
ノーベル経済学賞を受賞したムハマド・ユヌスの作った銀行です。
グラミン銀行の特徴はマイクロクレジットという、既存の銀行が普通口座も作らせなかった貧困家庭へ口座を用意し、小規模の融資を行い、経営のアドバイスまで行うという銀行業務をBOP(ピラミッドの底という意味。社会階層の最も下の人々という意味)と呼ばれる人々へ拡げた事にあります。

プロピッカーの慎さんが特集記事を書いてらっしゃったビジネスです。
記事はこちら。

慎さんも書いてらっしゃいますが、マイクロクレジットは日本でも銀行が行うべき、普通の銀行業務です。
しかし、利益に対してコストが高く優秀な銀行員を使うだけのメリットが無いのでしょう。
日本では地方の信用金庫などが行っています。


グラミン銀行がなぜ参加型開発なのか。
それは貧困解決の為のお金の支援を行うだけではなく、相互扶助組織を作ったり会計簿の作り方を教えたり、被支援者を支援全体へ巻き込んでいるからです。

これまでの慈善型支援やプロジェクト型支援では、支援者が主体で被支援者が客体でした。
しかし参加型開発では互いが主体であり、支援者は新たな気付きを得られたり、被支援者は主体性をもって自らの生活を豊かにする事ができます。

参加型開発では貧困解決の主目的のみならず人づくりも副目的として生まれるのです。
これがソーシャルビジネスと言われるビジネス形態としていまも持て囃されているモノの歴史的系譜となります。

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さて、NPにはマザーハウスの山崎さんがいらっしゃいます。
山崎さんがゼミ長をされていた竹中ゼミではトリクルダウン理論というのを学ばれていたはずです。
これはエリート教育をする事で、一部のエリートの利益が社会のピラミッドの中で下へ波及していくというトップダウンの理論です。
参加型開発はその対極に存在するボトムアップの考えです。
マザーハウスは貧困解決を主目的にされていない民間企業なので社会企業とは自称されていませんが、理念では貧困解決を目指されているかと思います。

マザーハウスの山口絵里子さんが有名になった時は田原総一郎が第二のホリエモンと言った事もありました。

しかし、マザーハウスとホリエモンの目指しているモノは全く異なっています。

私は一人親の家庭への金銭支援に色気を持つ事は辞めてマザーハウスが目指している世界のようにビジネスの力を以て貧困解決を実現する日本の社会起業家が出てくる事を願ってやみません。

以上。

野良猫でした。

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欄外編 本日のベトナム美女




本日の美女はĐoàn Thanh Hà様(ドアン・タイン・ハー)様。
1995年生まれの健康そうな美女です。
こんな美女に仕事しろって言われたらサビ残でも何でもしちゃいそうです。






























参照元:http://dantri.com.vn/nhip-song-tre/nu-sinh-xinh-dep-dh-lam-nghiep-co-hang-nghin-nguoi-theo-doi-tren-facebook-1418442418.htm





Zさんに向けた追記だにゃん。


まず大前提として支援というのは善意から始まるものです。
善意というのは、「かわいそう」とか「不条理だ」とか「正義に反する」っていう人の感情です。
ずーっと昔の中世の王女さまとかやお寺のお坊さんがやっていた社会貢献が、一般の人々に広がり、組織化し、いまでは企業や国家も行うべきだっていう議論へ変化してきたものです。

ですから、いまの価値観でそれぞれの支援のあり方を規定したり否定するのは、人間の歩んできた歴史を否定する事に他なりません。

例えば、公娼制度というものがあります。
法律の概念が存在しない時代から成立していた売春婦を国家によって管理をする制度です。
いまの価値観で言えば彼女達は性を搾取される犠牲者ですが、違う価値観で見る事もできます。
例えばタイのゴーゴーバーで働く女性や男性達。
彼ら彼女達は性を搾取される代わりに平均年収の10倍近くを稼ぎ出します。
そして、お客さんの中で相性の合う人と結婚をしたり、地元に戻ってビジネスを始めたりします。
(日本人で彼女達と結婚をする人もいます。)

もし売春が完全に禁止をされたら、こういう人たちはどこへ行くのでしょうか。

あるいは日本でも親が子どもを売っていた時代があります。
「からゆき」さんと呼ばれる女性達です。
彼女達は騙されて売られ、海外へ渡り現地の娼館で売春をしていました。
二束三文であろうと親はお金を得られ、また一般の日本人での海外進出は彼女達が最初だったと言われています。日本文化の伝道師ともいえる人々でした。もちろん悲劇として、ですが。


現代の価値観で考えればゴーゴーバーやからゆきさんも犠牲者であり、それを生み出した社会は悪です。
しかし、光の部分についても勇気を持って見つめないといけません。
闇があれば光もあります。


慈善型支援についても同じです。
これは慈善によって金銭の支援を行う為、実質的な貧困解決の効果は乏しいです。
言ってみれば街角の物乞いに小銭を恵むのと、描写としては同じです。
しかし支援の世界では彼らにお金をあげるのはタブーです。
依存をするからです。

ベトナムで面白い話があります。

ホアンキエムに物乞いがいて、旅行者が小銭をあげるのを私の上司が見ました。
ベトナムでは物乞いに対して喜捨をする事は徳を積むことになるのでベトナム人はよく小銭をあげています。
しかし、その上司に同行をしていたベトナム人は小銭をあげませんでした。
疑問に思った上司がなんでしないの?と聞くと、その物乞いは有名人らしく、物乞いをしていた場所の裏道に豪邸を持っているそうです。

物乞いがビジネスになっちゃっているわけです。

金銭支援は用途を絞り、監視と強制力を持って行われるべきです。
そしてそれができるのは国家か、ちゃんとした組織が必要です。

ですからこれはどちらかというと社会保障であるべきなのです。

貧困が社会を蝕む、というのは後付の理由です。
また、社会に一定の割合で貧困が生まれるのなら、なぜ日本は一億総中流になりえたのでしょうか。もちろんそこからも弾かれた人々がいるかもしれません。
しかし、一定の割合で必ず生まれるわけではありません。
経済状況によって左右されるもので常に収入は上がったり下がったりしているはずです。
ではなぜ彼らは収入が上がった時に貯金をするなりして、将来への備えをしなかったのでしょうか。

貧困者に対しての支援は、貧困が不平等であり、正しくないから行われるのです。
そして、これは宗教、あるいは文化的な理由が背景に存在します。

例えばキリスト教圏ではホームステイの文化があります。
これはユダヤの教えから来ています。
イスラム圏でも同じ文化があります。

日本にはホームステイの文化がありません。
これは宗教が異なるからです。

ホームステイの文化が無いから日本は遅れているのでしょうか。
違います。日本にはそういう文化が存在していないだけです。



日本の社会保障の分野がミクロの積み上げばっかりだというのは同意します。
ただ、日本からは上記のような慈善の価値観が失われて久しいというのを考慮する必要があると思います。(仏教的な徳を積むという文化も失われている)

理由は核家族化とか、地域のコミュニティが弱くなっている、とかです。
他者への興味・関心が失われてしまっているのです。
だから他者への支援を考える社会保障の分野に哲学といえる宗教が必要なのですが、個人的にここに社会主義が台頭してきている気がします。
これは危険です。

北欧の高福祉社会を目指すというのも、結局は自力で日本的な哲学を生み出せないから、他国の例を借りてきているだけです。

昔の日本にはほかの家庭が困っていたら助けていたのにも関わらず・・です。


支援の際に「かわいそう」と感じることを恥じる人々がいます。
そう感じない人々もいる中で、恥じを感じる時点で日本人の素敵な美徳なのですが、実は恥じる必要はありません。
人間というのは他者との比較で自己を認識します。

この比較が自分と他人の違いを生み出し、アイデンティティの形成へと繋がるわけです。
自分が持っているものを他人が持っていなければ優越感を感じるでしょうし、逆の場合では劣等感を感じるでしょう。これは自然な心理です。

ちなみにこのアイデンティティの形成によってナショナリズムやエスノセントリズムが生まれました。国家も他者との比較の延長線上に存在します。
詳しくはベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」か、エドワード・サイードの「オリエンタリズム」をお読みください。

オリエンタリズムは本来、善意に基づく行為でしたが、産業革命の点で秀でた欧米列強が自国の為に他者を見下し、幼稚なものとして認識し、植民地へと繋がっていきます。
この感覚はいまでも日本人の中で生きています。
そして克服するのは数十年、あるいは世紀を跨ぐかもしれません。

(エイズに対する偏見やLGBTへの偏見と同様)




またバラマキについても同様です。
現在はバラマキが批判されますが、それは日本国内でハード面の投資が一巡しているからです。
ただ高度経済期に作られた道路や橋、学校が老朽化しているので再投資が必要だと思います。

バラマキにも光と闇が存在します。

光の部分は先にも述べた一億総中流と呼べる均一な国づくりを実現できた事です。
東南アジアの新興国でも日本のように全国に道路や橋を作り、コンクリート製の学校を作る事ができれば、全国で均等に経済発展ができるかもしれません。

少なくとも四川大地震で起きたような学校倒壊で子どもが亡くなるというのは避けることができたかもしれません。
ミャンマーの大地震での支援ももっと迅速にできたかもしれません。


闇の部分は小沢一郎さんが良く知っていると思います。

少なくとも日本ほどどこでも車で行けて、国中の建物が震度7の地震に耐えられる国を私は知りません。

プロジェクト型支援はこういう点で、いま批判されているバラマキとは異なります。
仮に四川の学校をNGOがコンクリート製に立て替える事ができていれば、子ども達は死ななかったかもしれません。

ただ押し付けの支援にならないように、持続可能性を担保する議論があるのは事実です。
それは支援金があるからといって輸入品ばっかり使っていては支援先で持続できないので、現地の資材を使い、現地のノウハウで作ろうという考え方です。



最低賃金の引き上げは、物価の上昇を生み出すので意味無いと思います。

新しい仕事を生み出す事の方が重要です。
私はVC文化やエンジェルの文化、寄付の文化が根付く方がよっぽど実現可能性があると思います。

ドラッカーは世界の将来の行方として、小さなコミュニティの中心に企業やNPOが存在するようになるだろうと言っています。
Small and Medium Enterprise (SME)支援です。これは単に中小業支援ではなく、その枠をNPOや個人事業主まで広げた考え方です。

企業や組織に属さずとも、自活できる社会を作ることの方が理に適っていると思います。

また華僑的な生き方もいいかもしれません。(華人とは区別しています)

この辺りは同じ考えだと思います。


同じ考えな部分もありつつ、異なる考えの部分もある。
面白いですね。

私がZさんと一番違うのは国家がどれだけ干渉すべきか、という部分だと思います。
私は日本で失われた価値観を取り戻せば、国家の干渉は必要が無いと思っています。
欧米的な高福祉社会は、見返りとしていまの日本では考えられないレベルの重税が課されます。
またGDPもかなり落ちるでしょう。日本全体の経済的な豊かさは失われるでしょう。
それでもいいのなら、それでもいいのかもしれません。

私は、そんな事をするより市場や民間、社会そのものでフリーランスな生き方が許容されれば問題が無いと思っています。

そろそろ日本でしか生きていけない、あるいは会社組織にいなければどうなってしまうかわからないっていう思考の束縛から脱するべきなのかも、と思っています。


ちょっと追記の追記にゃん。

国家の欺瞞性は理解できるのですが、「公」と「私」の概念を維持する為には必要なんじゃないかなーっていうのが個人的なテーマです。
中華圏には無いっぽいんですよね。
少なくともベトナムには無さげです。それで毎日苦労しているんですよ。
仕事の責任の概念だったり、規律の面だったり。
そういう意味で日本ってやっぱりすごい国だなと痛感しています。

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